2012.05.17 Thursday
住まいの何処にいくらかけるか...。1
先日竣工したお宅は、いわゆる戸建て住宅団地として開発されたニュータウンの中心に位置するものだった。一斉に宅地分譲された近隣の敷地には、名だたるハウスメーカーのオンパレードで、さながら総合住宅展示場のようで、この時期の筍のように次から次へとニョキニョキと各社の住宅が建ちあがる中、どうも私たちの現場だけがひときわ異彩を放っていたようである。実は工事そのものも一番最初に始めて、竣工は見事にビリッケツだった。有名ビルダーの存在理由として、大量生産と規格化によるコストパフォーマンスで、庶民ののマイホームを実現するという哲学があげられるが、今回工事の期間中、聞くよその現場のうわさに私は耳を疑う事が多く、これは少し認識を改めないといけないかなと思ったりしたのだった。要は、決して、思うほど安くないのである。何となく、コストパフォーマンスが良く、大手だから品質も均質で、小さな地方工務店にいいように作られた上で高かったりするよりましだという消費者のイメージは、どうやら大きな誤解のようである。(つづく)JUGEMテーマ:建築
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住まいの「ちから」は、住まい手を守り、育て、助け続ける。私と住まい手はそう言う「ちから」がある住まいを望んで、よりよい住まいづくりに邁進する。出来た住まいに暮らす事で、住まい手の「暮らし」が、それまでより少しでも豊かなものである事を祈って作り上げていくのである。
今回のテーマでは、少し漠然とした事を書いている。しかし、住まいとはそもそもそういう漠然としたつかみ所のないもので、私たちは床や壁や天井を作っているのだが、そのものに意味はない。そう言うパーツに囲われた空間を作っている。それは空気かと問われても、そうとも言えるしそうでないとも言える。「雰囲気」という言葉が似つかわしいかもしれないが、住まい手家族がゆっくりくつろぎ、そこから仕事に勉学にと外部に遠征するための鋭気を養う場所を作っているのである。
私は講師をしていた時に授業で「もし君たちが住まいをプランする仕事に就くのならば」とこんな話をしていた。一般の方がなかなか出来ないことを仕事としてこなすから私たちにはギャラが発生するわけで、でなければプロとは言えない。ある種、修練した特殊技能は「ゴットハンド」であり、それを行使するということは多大な責任が伴う。住まいのプランによっては、住まい手家族を幸せにする事も出来るし、ギスギスした関係に落とし込む事も出来るんだと。極端な話、ご夫婦を離婚させる事だって出来るんだ...とそこまで言うと学生たちは怪訝そうな顔をしたものだった。そのくらいのつもりで、仕事に望めという事だが、現実的に、良く人が集まり笑いが絶えないと言われる住まいや、居心地が悪くて何となく寒々しい住まいもなくはない。何がそう作用するのかという明確な回答を私は持たないが、出来る事ならば前者になりうる住まいづくりを続けたいものである。そう言う雰囲気を醸し出す何らかの「ちから」があるとすれば、私はプロとしてそれを分析し、いつでも同じクオリティーを提供したいと思うのだが、まだまだ修行が足りなくて、その実態はつかめないのである...。(つづく)
一時期、シックハウスの反動から、健康とか無添加という言葉を冠に付けて、あたかもその家に住めば健康増進になるような喧伝が目に余ったが、あれは今から思えばそれまで新建材付けの粗悪品を増産していた業界の過剰反応だったのかもしれないと思ったりする。
迷信めいたことを語るつもりもないが、住まいづくりには色々な要素が入り込んできて、ともすると住まい手自身ではまとめきれないようなことになる事すらあるようである。それを冷静にジャッジするのが我々の仕事であるが、特に外野席から、家相がどうだ、日程がどうだとなってくるともうたまらない。家相にも色々流派があって、凝り固まらなければその平均値を取るくらいのつもりであれば支障ないと思うし、暦が気になる人があれば出来るだけ逆らわずに粛々と建てるべきかもしれない。
住まい空間にどんな力があるかという事を具体的に簡単に書き表す事は難しい。しかし、私たちは自分の住まいを考える時に、少なからずそこはプライベートスペースとして、他とは区別した特別な場所であって、様々な思いをして作り上げたその空間を暮らしの中心に位置づける大切な場所なのである。
今週後半の上棟を目指すF邸の基礎が完成し、養生期間をとっている。コンクリートは固まってから本来の堅さになり設計強度が出るまで数日を要しその間は荷重をかけない。いつもながら綺麗な仕上がりの基礎屋さんの基礎である。基礎を見ても長細い土地に納まり、土地の屈曲に合わせて途中から5度曲がっているのが見える。むやみにこう言うことをしては手間ばかり取られて良くないが、コンカイの敷地はそうしなければ土地に当てはまらないのである。まるでパズルのような仕事であるが、ひとまず基礎は敷地に納まったようだ。これからパズルは3Dとなりさらに複雑化する。これから周囲ギリギリに足場を組み、土台を基礎の上に乗せて上棟の日を迎えるのである。
工事は内装仕上げの段階に入っている。大工さんは黙々と無垢のナラフローリングを一枚一枚実(さね)を叩き入れるように丁寧に張り込んでいく日々である。現場の一角には、まだうずたかくフローリングが積み重ねられている。棟梁の息子さんに「張っても張っても終わらないね」と声をかけると苦笑いである。ただ、この手間のかかる仕事を丁寧にやってのけてくれるから、何年経っても風合いがよく、朽ちていくというよりはなじんでいく床になってくれるのである。世間では、無垢だ無垢だと騒いでも、表面にウレタンコーティングをしている製品を使う事が多い。それは余り私の好みではない。無垢材は素足で踏んだ時にその質感のよさが一番感じれるものである。だからこそ、無塗装のまま敷き詰めて、その上をステインで染色し、天然由来系のワックスで仕上げるのである。既成のウレタントップコートのフローリングは、フローリングではなくウレタンを踏んでいるから、いつしかべたべたする。木地の風合いはそれでは感じれないのである。
これから段々鬱陶しい梅雨になり、夏がやってくる。私たちがこの福岡で「高断熱高気密」を取り入れた住まいづくりを始めた頃は、「何で九州で」「そんな北国の工法が...」とそれは過激な批判をされたものだ。これもひとえに、「断熱」は北国でするものという大いなる誤解がある。たしかに初期型のこの手の住宅は、当初開口率も低く風通しが悪く、屋根面の断熱が希薄で、夏場にオーバーヒートを起こすというリスクをはらんでいた。「ほら見ろ!」と言われそうだが、これは断熱を強化したからではなく、北方型のバランスをそのまま輸入したからに由来する。私は早くから、九州型がある筈だと試行錯誤を繰り返し、開口率や風通し、日射遮蔽の庇の深さ、屋根断熱の強化などに取り組み、夏にも有効な断熱気密を試みてきたのである。冬だけでなく、夏も断熱気密は有効であり、中途半端なものはトラブルを起こすという事もわかってきている。夏群れと梅雨から開放された住まい空間は、現実的に断熱気密の方法で可能なのである。







