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真夜中のひとりごと...コロナで見えてきているもの。

  全国で、コロナの感染拡大に歯止めがかからない状況が続いています。感染の遺憾に関わらず、日に日に私たちの日常は一定のリズムをかき乱され始めて、鬱々とした空気感が少しずつボディーブローのように迫ってくる感覚は、きっと多くの方が共有できる感覚なのかもしれません。

 髭のように、そもそもが一匹狼で、何もかもをほとんど自分裁量で生きている人間にとっては、常に孤独というものとは背中合わせで、普段から雑草のごとく生きている分、それほど暮らしぶりが変わるわけではないので影響は少ないのですが、たくさんの組織や社会の仕組みに組み込まれて、その一員であることでご自分のアイデンティティーを保たれている人にとっては、いつものように群れることも許されず、孤独を感じる時間も極端に増えて、不安ばかりが増えているのではないかと思ったりします。

 ともすれば、感染と同じくらい、この心象に深く突き刺さっていくる感覚は、普通の人には影響が大きいのではないかと少し心配になりますが、それを補うものは人と人との本当の意味で心の温かい触れ合いと信頼だと思えて仕方ありません。昨年来、私のそういう思いは日に日に強くなります。そして、お体裁や表面の繕いはもう何も意味がなく、そんなことに一喜一憂する必要もすでにないことをこの激動の状況下で欲張らずに悟れば、信頼のおける者同士の触れ合いの中で、心は満たされていくと信じて病みません。

 嘘っぱちな政治は心に響かず日に日に馬脚を表し始めています。人間の少々の誤魔化しなど、コロナには効かないという皮肉な現実でしょう。これから、きっと仕事も、学問も、組織も、あらゆるものが揺さぶられて明暗を分けます。生き残ると信頼し合えた者同士が、本音で励まし合い、助け合って生きていく幕開けかもしれません。

不安に思っているなら、優しい言葉を掛け合いましょう。

お互いに温度を感じる意志を伝え合いましょう。

もう、軽々しい体裁は入りません。

孤独は、優しさの「源」です。

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| エッセイ | 22:51 | comments(0) | - |
敗戦の日

 個人的に「何だかキナ臭い」と思い始めてから久しい。75年前に悲惨な戦争が終わってから今日まで、この国は辛うじて「戦争」と言う人類最大の罪深い所業に加担する事なく、これも辛うじて平和を今日まで継続してきている。この事実はどう言ってもリアルな現状であって、戦争放棄と世界恒久平和を宣言する現憲法下の社会である故である事は揺るがないのではないだろうか。

 近年、この憲法の下にあるはずの政治家達が、この憲法をねじ曲げ、あと付けの意訳を捏造し、あたかも時代遅れの憲法のように言う事が多くなった。少なくとも、新解釈を捏造しすでに一脱を実行している輩に、根本である憲法の改正を主張する権利はないと思う。危なっかしくて胡散臭さしかないのだ。平和に時代遅れはないのだ。

 一番の問題は、物心ついて戦争と言う悲惨な体験を記憶として持っている人がどんどん減少して、75年経って今、多くの国民がどん底を味わった戦争が、字面の史実になってしまっている事だと思う。あとは、その史実を謙虚に受け止めて想像する事だが、この想像力の劣化が国家的に著しい。ばかな政治家と、その太鼓持ちになってしまっているマスメディアの罪は計り知れないが、それを正常に導く民力が決定的に未成熟である事が心配でならない。

 剥げて、髭生やして、ふんぞり返って、偉そうにしている老人でも、75歳から下は戦争を知らない。若者と同じくらいリアル感がない連中が、「敵地攻撃能力」の是非などとくだらない詭弁を口にしているのだ。メディアもそのままに伝える異常ぶり。彼らは、自分達が焼け出される事を想像しない。適地に派遣される事を想像しない。命の危険が迫る事をも想像しない。自分達は特別だと思っているから出来る発言なのだ。幼稚な政治屋達の化けの皮を国民がはがさなければ、刻々と危険度が増している。

 誰も戦争は良いとは思っていない。ただ、戦争をおこさないように常に監視し、権力に異を唱えなければならないと思っている人は極めて少ない。軍靴の足音は最初はひたひたと小さく始まり、やがて大音量で迫り来れば個人ではどうしようも出来なくなり、それが銃弾爆撃の音にいきなりスイッチする事をもっと意識するべきだ。

 権力者は戦争を好み、裏で利益の再分配を行う。国民は蚊帳の外で、被害だけを被るのは歴史が歴然と教えている。

敗戦前夜、その戦争を執行した連中の末路を辿れば、およそ国民ひとりひとりの命を死守したかったとは思えない。

 唯一の被爆国でありながら、核拡散防止条約にいまだ批准しようとしないこの国は、一体何処へ進もうとしているのだろうか。平成になった頃から、おかしな世の中が進んでいる。

  敗戦の日である今日、少なからず、僅かコップ一杯の水が飲めなくなり、全てを奪い去ってしまう国民の「戦争」を想像力を揺り動かして一人でも多くの人が共有することを願わないではいられない。

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| エッセイ | 11:04 | comments(0) | - |
原爆の日

 今日は長崎に原爆が投下された原爆の日。このコラムを書きはじめてすでに10年以上が経過したが、私は毎年、この日は30年以上前に仕事で訪れた長崎でお会いしたひとりの老婆の事を書いている。拙い経験だが、戦後生まれの私が、二次的に戦争・原爆というものに直接触れた唯一の体験だからである。その方は長崎で若くして被爆された、お顔の半分くらいに大きな火傷のケロイドがある老婆だった。お仕事の打ち合わせでお邪魔したお宅の奥様だが、上司のお供である若い私たちにも気遣いをされて、飲み食いを進め、長崎言葉で遠慮するなとしきりに仰ってくださった。我々のいる居間からは少し離れて、隣の薄暗い部屋の隅の方からである。 

 微笑みながら「ゴメンね、こんな顔だけど気にしないでね」と、しきりにご自分のお顔を気にされながら愛想を振りまかれる。多感な20代だった私には、勧められるものがのどを通るはずもない。おそらくあちらがご心配される様な形相の私であった事は間違いなく、思い出せば今でも申し訳なくて身が縮む思いである。

 彼女に、何の落ち度があるというのだろうか。何の遠慮をして生きる必要があることか。個人的には何の関わりもない戦争という現実に巻き込まれて、女性がお顔の半分を失われて送ってきた時間を思うと、彼女の発する「ごめんね」と言う言葉も、大きく引きつる微笑みをも、私には飲み込む術がなかったのである。 

 戦争とは、そう言うものだと思う。巻き込まれたすべての人が少なからずそう言う「傷」を負う。人類がいかなる正義でもやってはいけない事。それが戦争である。実経験者の世代が日に日にいなくなり、我々とさほど変わらない世代の偉そうな馬鹿な政治屋達が、「敵地攻撃も防衛」などと詭弁をあからさまに口にしている今に、私はとんでもない危機感を抱かないではいられない。わずか75年の、この国の変容ぶりを心から心配する。彼らはさぞかし先生が伝えてくれた平和教育を、真面目に聞いてはいなかったのだろう。専守防衛に努め、平和憲法を堅持すると言う気持ちを、今こそ一年に一度しっかり胸に刻むべきではないだろうか。戦争を語る馬鹿どもには、自分が銃口をむけられる想像する能力がない。自分の家族がバラバラになり何もかも失うと言う想像をする頭がない。

 そんな奴らに75年前と同じ国家的過ちを再び起こさせはいかない。6日と今日9日は、黙祷しながらそう思わないではいられないのである。

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| エッセイ | 22:44 | comments(0) | - |
九州豪雨再び。暦との会話。

 昨日からずっと九州の上を線状雲が停滞して、各地に豪雨をもたらしている。数年前の北部九州豪雨を彷彿とさせる。あの時も酒米の田植えから1週間ほどしての豪雨だった。今年も田植えを終えたのが先月の25日、暦的には符合する。

 数年前から、日田の造り酒屋の田んぼの酒米作りをお手伝いさせていただいている。杜氏の百合さんはかつて私の本業のクライアントだが、彼女が帰京して酒造りを始められて以来、そのサポートのお仲間の末席を温めている。この田圃への恋慕の念はそこはかとない。笑。とにかく気になる。たかだか田植え・稲刈りを少々お手伝いしたくらいで、何がわかるというわけではないが、この田圃が愛おしいのである。農業が暦との会話であることは自明のことである。そろそろ田植え、着床したか、大雨が来る、台風だ、稲が倒れた(酒米雄町は随分食米より背が高い)、刈り取りはいつくらいかと話題が尽きない。杜氏の百合さんに先日稲の倒れ止めの方策を提案していたら「あなたは十分、従事者です」と笑われた。

 そんなママゴトのような私の経験をもっても、かつて農耕が当たり前の生業だったこの国の人々は、もっと自然のうねりをリアルに感じ、一喜一憂し、自然に畏敬の念をもって日々を送っていただろうことは想像できる。国民の大半がそうであった時代から、いつしか土建立国と言われるほどに土地の隅々までコンクリートで固めては、それで「経済」を活性化させる国になってしまった。土に触らない日々を送る人が多くなりすぎている。その是非をつづる能力は私にはない。ただ、土を触る感覚はもっと蘇らせるべきだろうと思う。土に触ると人は元気になる。

 地球温暖化は確実に、緩やかな優しい気候を年々激化させている。「災害」と一口に言うが、これは本当に天災なのだろうか。雨音で、音楽もまともに耳に入らない。そんな夜にあの田圃を想いながらこの稿を綴っている。

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| エッセイ | 22:46 | comments(0) | - |
本日は、忘れ得ぬ日。

 福岡出身のペシャワール会の中村哲先生が、現地で銃撃にあい、お亡くなりになったというニュースが舞い込みました。最初は撃たれたけど命に別状はないとの報道でしたが、後のニュースが死亡を伝えました。どうか誤報でありますようにと願っていましたが真実のようです。あのような志の方が、銃弾に倒れると言う現実はどうにも受け入れ難く、何処か心の中で危険地帯でもきっと神様に守られていると思っていた私などには、ただただ無情感しかありません。

 一方、国内ではろくな審議もしないままに体たらくな国会が、これから私たちの暮らしを脅かさざるを得ない不平等なFTAが可決。何の責任も取らずやりたい放題の政府は、情報開示をする気などさらさらなく、会期が終われば逃げ切りと詭弁と嘘を並べ立てています。

 青臭く正義というものが全てであるなどとは言いません。ただ、世の中の動きがこれほど良くないぶれを見せつけてくれると、神様は一体何をしたいのだろうかと呟いてしまいたくもなるのです。私利私欲に走らず、自らの仕事と定めたものに真摯に向き合い、有名無名に関わらずその分を全うする精神は、かつての日本人の大多数には備わっていたものだと推測します。ただ、今の世の中、権力や財力を持ちえたものほど志が低く、どうにも目に余る状態はどうにもやるせなくて仕方ありません。きっと、この現状の要因は、私自身のなかにも、皆さんのなかにもあると思います。その要因をよく考え、少しでも好転する為に、自ら発言行動していかなければならないと改めて思います。

 崇高なお仕事をされていた中村先生の命が絶たれ、悪政がまた一歩進んだ日として、12月4日は忘れることが出来ません。本日を起点として、また明日から毎日を大切に送ろうと思います。

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| エッセイ | 22:09 | comments(0) | trackbacks(0) |
はるか遠い道のり。

 昨晩は久しぶりにバスと地下鉄を使って繁華街に出た。北海道から25年来お世話になっている恩のある方が来福連れて、会食のための外出だった。御歳81になられたと言うが何のまだまだ矍鑠とされている。一線は後進に譲られたものの、その語り口調は野望みなぎる感じだ。当時まだ30そこそこだった私が、北海道の高性能住宅の流れに共鳴し、福岡札幌を結構な頻度で行き来した頃、その先にはいつもこの方がおられた。大学の先生や資材関係、ご同業の諸先輩方を惜しみなくご紹介くださり、今の私の北海道ルートはこの方を始め数人の諸先輩の暖かいご支援によって、その後今の今まで継続していると言って良いのである。

 かくして25年の出来事をダイジェストでつまんでも充分な量の宴の肴である。酔いも回りそろそろという時にかの恩人が、何気なく語られた。ご自身の脱サラ起業の瞬間、彼は今の私の歳だったそうである。計算すればそうなることはわかっていたが、改めて言われると私は後頭部を殴打された気分だった。考えてみると自分の事務所の開所30年の祝もこなしたばかりだが、白髪白鬚も増え、何となく老け込みがちな自分がそこにある。御歳81歳の大恩人は、いささか緩んだ私にまたひとつの福音を置いて福岡をあとにされたのだ。今、目の前に横たわる事実として、彼は今の私の歳からあの会社を興し、25年余り育てつづけて今の状態にある。少し終り掛けの感じがしていた自分が、また、始まったばかりのように思えてきた。頑張らねばと心に誓った。

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| エッセイ | 23:59 | comments(0) | trackbacks(0) |
なぜ、こんな世の中になってしまったのか。

 昨晩はお仲間のお誘いを受けて、経済学者の金子勝氏のトークショーを聴きに箱崎のブックスキューブリックに参加。ゲストに昨年まで所属団体のパッシブハウスジャパンの理事としてお世話になった環境エネルギー政策所の飯田哲也氏も来福という事で、これは伺わねばと時間を繰り合わせて伺いました。

 満員の会場で熱気溢れる中、テレビで拝見する金子氏よりも数倍ディープな金子節が炸裂、書き起こせないのが残念ですが、金子氏の俯瞰する経済という視点からの「平成」が、普段住宅業界から見ている髭の「平成」と符合して、やっぱりそうかと合点がいき、胸のすく想いがする有意義な時間でした。小規模会場のアットホームな会だからこそあかせるレアな話題は、まさに閉塞感溢れる昨今のこの国の元凶とも言える異様なメディアの裏側をつまびらかにするものでした。本来、真実が表に出ないことの方が異常なのに、嫌な世の中になったものです。

 金子氏の新著の帯に「なぜ、こんな世の中になってしまったのか。今だけ、自分だけ、カネだけ」とあります。心ある方は、皆さんこんな表現を共有しているのではないかと思います。どんなに視点を変えてみても、未だ続く馬鹿な政治で未来予測にあぶり出されるものはいよいよ「絶望」しかないのですが、諦めることが一番良くないことであるのは自明です。気付いた者、自分で考えることができる者から、早々に備えをしていくしかないのだと思います。久々に飯田氏ともご面会が叶いました。この国を憂う志のある方はまだまだ沢山おられると思うと少し力が湧きました。糧として、またこれからがんばりたいと思います。

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| エッセイ | 18:41 | comments(0) | trackbacks(0) |
敗戦の日

 原爆の日からお盆を抜けて、本日は、この国が戦争に負けて戦時下から平穏に戻った日てです。政府主催の式典や、各メディアは「終戦記念日」と書いていますが、そのことに何の疑問も感じなくなってきている事と、取り上げられるヴォリウムの小ささに少なからず私は不安を感じます。

 年々、戦争経験者の生存率が下がり、具体的な惨事の生き証人の声が聞こえなくなり始めてからのの国の変容ぶりにはほんとうに仰天します。私たちは、子どもの頃から、悲惨な戦争経験を経て、平和憲法である現憲法が制定され、世界に誇る9条を持った国として、恒久平和への思いは揺るぎないものと習って育ちました。事実、現憲法下で平和が続いているのです。

 いつしか、臆面もなく憲法改正を掲げる阿呆な首相が誕生し、いつしかメディアも懐柔されて沈黙する中、嘘と隠蔽・改ざんを繰り返す国民を顧みない傍若無人な政治が日常になってしまっています。首相が声高に叫ぶのは「経済優先」ただそのためと叫びながら、実は弱者切り捨てと軍拡、格差社会の拡大ばかりが断行されつづけています。「普通の国」と言いますが、70年以上戦争をせずにここまで来れた希有なこの国を、ほんとうに戦争の出来る「普通」の国にする必要があるのでしょうか。戦争を起こそうとする人間は、自分が痛みを分つとは決して思っていません。現実にひとたび戦争となければ、多くの罪もない人の血が流れ、命が奪われていくのです。かつて戦争を経験したその一般市民の方達は、私たちに「何があっても二度と起こしてはいけないもの」と訴え続けてくれていました。眉唾な政治家よりも真実を語る市民の声を私たちは忘れてはいけないと思います。

 近年のこの国の動き、何かおかしいと思いませんか?諦めた時に、戦争は始まります。全体主義に何となく息苦しさを感じる普通の感覚の人が、語り続けなければならないと思います。原爆投下から、お盆を経て今日まで、夏は命の尊さと、平和の大切さ、そしてしばしば牙を剥く政治の恐ろしさを実感する季節だと思います。戦没者の皆様に、黙祷。

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| エッセイ | 21:58 | comments(0) | trackbacks(0) |
長崎原爆の日

 本日は6日に続き長崎に原爆が投下された日です。投下から本日までの長き時間の中で、原爆の犠牲になられ、苦しみ、命を落とされた方たちへ、心から追悼の意を表します。

 ここ数日、テレビは将来を嘱望される坊ちゃん議員の出来ちゃった婚の話題が持ちきりです。その会見が首相官邸で行われ、即応するように首相コメントが出て、何だか国を上げてのお祝いムード。この「つくられた」空気感にとんでもない違和感を感じているのは私だけでしょうか。近年この国は、何もかもが実のない上っ面ばかりに見えて仕方ありません。おふたりの前途が幸多いものである事は願いますが、そんなプライベートな事を官邸を上げて騒ぐ事でも何でもない。政治はもっともっとやらなければならない事が沢山ある。とある番組で「とかく何かと暗い話題が多いこの頃ですが、明るい話題...」などと紹介されているのを聴いてうんざりしました。そんなプライベートな事を騒ぎ立てるなら「何かと暗い話題」を真剣に取り組めと言いたい。ゆとりのポーズで迎え入れた時の首相は、大統領にでもなったつもりでしょうか。また官邸に報告に言った坊ちゃん議員に、将来、庶民の痛みがわかるとも思えません。

 この話は、毎年この日に何らかの形で書いています。私がまだ駆け出しの頃、長崎で小さなビル建設に携わる機会がありました。ボスと一緒にお打合せに言ったクライアントの老夫婦は、いわゆる原爆被爆者のご夫妻でした。奥様のほうのお顔にすごいケロイドが残り、その半分が大きく爛れ、そちら側の目は、その瞬間にかっと見開いたまま固まってしまったような状態でした。やはり最初はどうしてもぎょっとします。奥様は私たちにご親切にお食事の世話など焼いてくれながら、必ず皆がいるその間には座られずに、奥の間の薄暗いところに座られます。暗くてお顔が見えない位置にいつも座られました。暗闇から、見開いたままの目が向きによって時折キラッと光って見えます。そして、私たちの取り繕いを全て合点しているように残りのお顔で微笑しながらこう言うのです。「こんな顔していてごめんなさいね。怖くないけんね。」もう、35年も前のことであるのに、今でもその肉声は私の中でいつでも再生できます。意外なほどに、お声は若々しい活き活きとしたお声でした。なぜ、彼女は自分のお顔で、他人に謝らなければならないのか。何も悪い事もしていないのに。むしろ戦争と言うとんでもない蛮行の被害者なのに。私の中で毎年この日が来ると蘇る瞬間です。

 偉そうにしている政治家やいわゆる上流階級は、戦争を時折「やむを得ない正義」のように口にしますが、そう言う輩に限って我が身は戦場に一番遠い場所に置きます。言い換えれば、一度そうなれば、真っ先に何の罪もない一般市民をこんな悲劇に陥れるのです。戦争の体験者が減り、実感を伴わない輩が権力の中枢で戦争も含めた国防を語ります。政治がやらなればならないのは、国防と言う戦争でなく、「平和」の維持です。あらゆる知恵をもって、人類が到達するべきものは、「平和」です。今の政治家に、その確固たる信念はあるでしょうか。

 何度でも何十度でも、私はあの瞬間の事を語ります。ご自身のお顔の傷を何も悪くないのに謝られた奥様の事を。長年、差別や偏見に苦しまれながら送られたであろうあの奥様の事を。私もまた戦争を知らない世代ですが、想像力を精一杯膨らませて、二度と過ちを起こさないように語ります。

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| エッセイ | 11:46 | comments(0) | trackbacks(0) |
広島原爆の日

 例年この時期になると、6日の広島、9日の長崎原爆の日、15日の敗戦の日が続いて、「平和」と言う、本来空気のように当り前であるべきものが、多大な先人たちの犠牲と教訓の末に辛うじて続いている貴重な幸福である事を思い知らされます。

 年々報道の取り上げられ方も小さくなり、何となくフェイスブックなどの一般の方の記事も見掛けなくなってきているのは由々しき事ではないかと思います。すでに先の戦争を体験した世代の方達が少なくなり、いかにも偉そうに国防や改憲を語る政治家や保守を声高に主張する経済界の親父たちも、ほぼ戦争の悲惨さを知らない戦後生まれだと言うことをしっかりと認識してみなければ、その権高な態度に騙されてしまいそうで恐ろしい。つまり、戦争なんて見た事もやった事もない人たちが、危なっかしくもそう言う事を語り、いじろうとしているのです。

 すでにこの国は、過去にあった戦争を歴史としては捉えられても、体験のないものとして扱う国の時代になっているということです。私たちの子どもの頃はまだ戦争体験者が沢山おられて、口々に「どんな事があっても。どんな方法をもってもやってはいけない事」として私たちにその実体験を語ってくれていました。実体験は真実です。戦争に勝ち負けなんてない、悲惨な事しかない。どんな事をしても避けなければならない。戦争がないと言うことが、平和なのです。

 ともすれば、「平和のために戦争も辞さない」みたいな馬鹿な輩が、いかにも正義を語るかのように連帯を呼びかけます。日々、不自由さを肌で感じる昨今の社会状況は、そんな馬鹿にただ呆れるばかりではなく、バランス感覚がまだ保たれている人々が沈黙せず、常に語りつづけていく事のみしか歯止めが掛かりません。黙していればやがて、沈黙させられてしまう。歴史がそれを教えてくれます。どんな事があっても、一般市民が巻き込まれる悲惨な戦争が起きない事、それが平和です。この季節、その事を深く深く胸に刻みたいと思います。

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| エッセイ | 11:48 | comments(0) | trackbacks(0) |
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