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柳宗悦の自邸修復保存
 先日、NHKの新日曜美術館で柳宗悦の自邸の修復と公開の模様を伝えていた。先日上京した折に、いつもは必ず立ち寄る駒場の民芸館へ今回は行けずに帰福したため、少し心残りだったからか、何気ないテレビの音声が私のアンテナに引っかかり思わず見入ってしまった。
 柳宗悦と言えば、大正デモクラシーの最中、「用の美」を唱え民芸運動を展開した巨人。その審美眼で見いだされたものは、全国各地の民陶、朝鮮・沖縄・アイヌの文化、棟方志功などなど、話題に事欠かない。その柳宗悦が自らデザインしたという住宅が、この度、修復保存されたというのだ。画面に現れるその空間は、和洋混在、独特の風合いを持った落ち着いた、画面から見てもいい空間である。随所にそのこだわりが織り込まれているというが、さりげなく決して嫌味な感じではない。俗にいう地方の「民芸調」と言う言葉で一括りされる独特の泥臭さはなく、むしろ小粋な江戸の町家の風情を洋のライフスタイルに焼き直したというイメージの空間だった。クローズアップされる画面からどれ程の事を理解出来るかわからないので、あまり多くは語れないが、若い頃、何冊かの柳宗悦の著書に触れた折に、世間一般の「民芸」と言う言葉から自分勝手に持っていた印象とは少し違った、もっと垢抜けたものを感じたが、今回のそれもそれと似たものを感じたのかもしれない。
 モダニズムという言葉が頭の中でいっぱいになり、フランスのル・コルビュジェの残した著作を、無論邦訳で読んだときに無味乾燥なものを感じて、パリに行き、その空間に触れて自分の誤解に安堵した事があったが、やはりその場に立たないと空間は理解出来ない。次回の上京の機会に実行しなければならない宿題が一つ増えた。是非ともあのエスプリを肉眼で感じたいものである。
| 建築・デザイン | 11:35 | comments(0) | trackbacks(0) |
ジャワ島の地震
 ジャワ島での大地震は悲惨な被害状況を刻々と伝え始め、その映像を見るにつけ悲痛な思いにかられてしまう。天変地異という言葉は、滅多に起こらない自然現象と言う事が前提として使われる印象の言葉だが、近頃の地震については頻繁に訪れる避けられない大災害の様相を呈している。
 私たちの脳裏にもあの福岡での震度5強の記憶はまだ色あせていない。今回の地震はマグニチュード6.3で阪神淡路の1/30程度、ただ、震源地が浅く地盤の横滑りによる今回の地震は、集中した小さなエリアで大きな揺れが生ずるという特徴があり、それが人口集中する旧市街の観光地の直下で起こった事から甚大な被害に結びついたという。
 地震は、我々愚鈍な人類には予兆を感じる事が出来ない事が大きな悲劇を生んでしまう。細やかな個人的な日々の営みを瞬時に、ためらいもなく寸断してしまう。そう言う意味では、台風や火災や、もしかすると愚な戦争よりも予期せぬ悲劇を大量に作り出してしまうのかもしれない。被害者の人数が日々大量に増え更新されるにつけ、ぶつけようのない怒りや悲しみが世界中に飛散するようでならない。
 悲痛な思いで考えを巡らせば、昨今のわが国の耐震偽装の問題は、無論、腹立たしい事で、あってはならない事ではあるけれども、メディアが報じるように、責任の所在を明らかにし、ただ個人を糾弾し、罰則規定を強化する事により全てが改善するとは、私には到底思えない。むしろやり場のない怒りを、何かにぶつけて納得したがっているようにも見えなくもない。地球というあたかもそれ自体が息づいているかのような(例えばガイア理論のように)美しい広大な自然を持つ星に、過酷な負荷を与え続けている我々人類。その我々が、稚拙な能力で、あたかもこの実社会をコントロールしているかのような傲慢無礼な錯覚から、少し目覚めなければいけない時期に来ているのではないかと思う。科学的な地震予知研究をさらに進歩させる事は急務だし、建築の構造基準を見直す事も必要だが、自然に地震の規模の最大値等があるようにも思えない。基準を強化すれば、地球上の至る所にその基準値を満たした建物が出来、その想定を超えた地震が起きる。それらとともにむしろ、私たちは勝ち様のない大自然に対して、どう存在していくかをもう一度見直さなければならないのではないだろうか。
 人間の利便が、地球に負荷を与えないか。地球に対してマス(mas)が大きくなってしまっている私たちだからこそ、考えなければならない事だと思う。
 日々一人でも多くの被災者の方が救済され、被害者が少しでも増えない事を祈りつつ...。
| 社会・事件 | 09:31 | comments(0) | trackbacks(1) |
コスモポリタンに憧れて
 我が国の前年度末の外国人登録者数が初めて200万人を超えたという。その割合は日本に居住する人の100人に1.6人弱となり、10年前に比べて1.5倍の延びだと言う。この数字の延びを多いと取るか少ないと取るかは人それぞれだが、この内訳の3割は韓国・朝鮮籍の方、次いで中国、南米となるらしい。そう考えれば、外国人と言っても、隣国のこの方達は遠い親戚のようなもので、その方達がが割合の大半を占めている。
 確かに言われてみれば、近頃、街を歩いていても、日常的に金髪の白人女性(無論、近頃の若者たちのようなまがい物の金髪日本人ではなく)や体格のいい黒人の男性とすれ違う事も多くなったし、身につけられているものから私たちとは違った宗教を持ったお国の方だと感じる方にもしばしば遭遇するようになった。巷の会話を良く聴くと違った言語で楽しそうに会話しながら歩いていたりする。
 江戸300年の鎖国政策以降、私たち日本人の感覚は、私も含めて何となく他の国の方達に対して寛容さに欠ける。周囲を海に囲まれ、国境のない国と言われる得意な地理的条件をもった極東の島国だから、ある部分仕方ないのかもしれないが、構えてしまうそのリアクションは、そう言う意味では、まだまだ世界に開かれた国とは言いがたいのかもしれない。近頃の近隣国とのもめ事も、幕末以降、近代国家の仲間入りをにわか仕立てに果たした我が国だからこそ、抱える国際問題であって、親戚のような人々ともめる事は悲しいが、それまでの少しおおらかな時代では考えられなかったのではないだろうか。
 私が大好きな奈良を訪れると、私は、かの都が在りし日の国際色豊かな日本の都を想像してしまう。中国や朝鮮から、政治亡命者をはじめとする多くの知識人が日本にボートピープルとして渡って来た事は既に史実が明らかにしている。当時、中国、シルクロードを介して、中近東、ヨーロッパの文化も移入されなかったとは限らない。私の個人的な空想の域を超えないが、メインストリート朱雀大路を、土ぼこりと喧噪の中、肌の色のまちまちな人が様々な民族衣装を着て闊歩している。あるいはストリートミュージシャンや大道芸人が辻々で異国の見せ物をやって人だかりが出来ていたかもしれない。宮廷では多くの渡来系の知識人が重用されてハングルや中国語が公用語として飛び交い、異文化を刺激的に受動しながら、それらがエネルギッシュに未来に向けてうねっている。どこかで読んだ司馬遼太郎のエッセイにもそんな表現があったように記憶するが、そんな光景を空想してしまう。
 江戸は300年であるが、長い日本の歴史から言えば、たかが300年である。もう少しニュートラルに考えれば、大陸文化を日本海をフィルターとして積極的に、良いとこ取りして成熟して来た私たちの祖先に見習い、極東の島国だからこそ出来るしたたかな外交手腕で、平和に文化的な視点で問題をクリアしていきながら、もっともっと色々なものを受け入れていってよいと思う。現実はそんなに簡単にはいかないだろうけれど、空想は時として現実問題の回避のヒントにならないとも限らない。新たな考えで国際化ではなく、実は温故知新、先人に習ってと言われると受け入れるスタンスも変わってこないだろうか。どんなに片意地張ったって、仏教も様々な芸術も種は大陸から飛んで来た。私たちの祖先はその種に肥やしを与え、発芽させ、独特の花を開かせた。その事を誇りに思い、卑屈にならずに堂々と隣国をはじめとする世界と交流していけば良いのだと思う。今度カフェかなにかで外国の方と視線があったら、微笑みを返してみようかな。とても小さな国際貢献として...。
| 歴史・文化・旅 | 10:08 | comments(2) | trackbacks(1) |
Photograf
 欧米ではナイコンで知られるニコン(NIKON)に続いて、キャノン(CANON)がフィルム式カメラの開発製造から撤退するという。かつて世界に冠たる日本のカメラメーカーとして君臨したビッグネームたちが次々とデジタルに特化し始めている。確かに、近頃のデジカメと言えばその解像度は銀塩に劣らないレベルになりつつあるし、カメラと言えばデジカメなってしまった。誰でも手軽にシャッターを押せばそこそこの写真が撮れて、良いものは保存、そうでないものは消去。フィルムがなくなる心配もないし、現像に出す必要もないという手軽さは、銀塩写真にはない便利さで、私たちの生活に、もはやなくてはならないものだ。
 中学生の頃、ニコンF2と言うプロ仕様の高級一眼レフカメラに憧れたが、無論、子供の玩具にするには高価すぎるものだから、生涯で一度だけ父に無心してニコマートという比較的コンシューマー向けのカメラを買ってもらった。殆どがマニュアルで、露出もシャッタースピードも自分で決めて、フィルムを巻き、カシャーンという金属音のするシャッターを押す瞬間は、なんだか大人になった気がしたことを覚えている。嬉しくて、小遣いの大半をフィルム代に持って行かれながら、暗室で現像のまねごと等をやったこともあった。大人になってからは近視がひどくなり、オートフォーカスのカメラでないとピント合わせが難しくなり、キャノンのイオスキッスを使っていたが、その時も何もかもオートマチックな事に少しだけ物足りなさを感じていたのはなぜだろうか。
 かつてオランダ医師ポンペ先生に写真術を学んだ上野彦馬という人が、長崎で日本初の写真館を開いたのは1862年の事。当時の人々は魂を抜かれるとかなんとか言って、なかなかファインダーに収まらなかったそうだし、一枚の写真を撮るのに現在のお金で三万円くらいかかり、ポーズをとって5分以上もじっとしていなければならなかったというから、普及はなかなか難しかったのではないだろうか。ただ、率先して好んで写真に納まった人々がいる。いわゆる幕末の志士たちである。よく紹介される坂本龍馬や高杉晋作の肖像はこの彦馬の撮影によるもの。好奇心おう盛な新し物好きの彼らが、この国を文明開化に導いたとすれば、納得出来るエピソードと言える。それから150年、大きなガラス印画板はフィルムとなり、35ミリの世界規格が地球の何処でも手に入るようになり、今、その役目を終えて、デジタルになりつつある。
 技術の進歩は好ましい事だが、懸念されるのは概念の理解が難しくなっている事である。銀塩写真は、私の知力でも何となく理解出来る。レンズを通した光が感光媒体の上に像を結び、化学的な変化を起こして感光するということがイメージ出来る。しかし、デジタルカメラはわからない。映像が、どのようにして電気信号に変わり、メモリーに取り込まれるのか。たとえば最近の自動車が故障して、ボンネットを開けてもどうしようもなく、JAFを呼ぶしか手だてがないのも同じ事。パソコンをこれだけ酷使しながら、なぜ動いているのか、わかっている人がどれくらいいるだろうか。生活の隅々に、そんな危うさを感じないではいられない。理解を放棄した人々は、大丈夫だと言う安心を仮定して、考える事を止める。その安心に根拠は全くない。便利な世の中ほど、得体の知れぬ何かに依存しないと成立しなくなる。車やパソコンやデジタルカメラが、我々に反旗を翻さないとも限らない。なんだか話がSFめいてきてしまったが、その辺りの感覚をしっかり失わないゆとりが欲しい。
 フォトグラフ(Photograf)という言葉の響きがいい。少し、手間取るが、中学のときに手に入れたカメラも、実はまだちゃんと動く。たまにはこれでシャッターを切ることにしよう。日本に写真を輸入した上野彦馬さんのことを思いながら。
| 歴史・文化・旅 | 01:58 | comments(0) | trackbacks(0) |
アナログレコード
 住宅の企画の仕事などが始まると、極力外出は謹んで、デスクにしがみついている。待ってくださっているクライアントに申し訳ないし、そうやって自分を追い込まなければ、怠け者はなかなかはかが行かない。そんなろう城状態になってくると、唯一の気分転換は私の場合、コーヒーと音楽くらいだろうか。そんな私に昨日までの快晴は、いつもと反対に少しばかり恨めしい天気となった。コーヒーは事務所に居る限りはほとんど依存症のように口にしている。と言っても通でもないし、こだわりはないが、ないと口寂しい。そして常に、少し押さえ気味のヴォリウムで、ミニコンポからは何がしかの音が出ている。ボーカルは、邦楽よりも洋楽の方が良い。日本語の詞は、いちいち思考に引っかかるが、悲しい私の英語力ではあまり耳に残らずに流して聴けて済むからだ。何かものづくりをしている時は、テンポの良いスウィングするジャズが良い。それも安心して聴けるスタンダードなピアノトリオくらい。モダンなサックスやトランペットは、良いと思うもの程そっちの世界へ連れて行かれるので、集中して聴いて気分を変える時に限っては良い。じっくり考える時は、静かなクラシックも良いかもしれない。特に法則はないが、気まぐれにそのときに合ったものをかけている。ラジオも聴くが、出来ればDJがあまり前に出ない番組が理想だ。最近は音楽重視のFMもテレビ放送並みにタレントDJが跋扈して、少し仕事中は聴けない番組が増えている。
 かくして、仕事場と言えど、我が社の私の机の周りには、コーヒーメーカーとCDやLPのラックが手身近な部分に置いてあって、デスクの両端にはコンポのスピーカーが置いてあるし、山積みの本やモデリングの際の工具類、あげくには部屋の隅には中学のときに買って未だにさっぱり旨くならないが、古いギター等が立てかけてあるので、人様には少し申し訳なくて見せにくい。口の悪い人ならば、絶対「本当に仕事しているの?」と言うと思う。面と向かって言われた事はないが、きっとそう思われているクライアントもいると思わずにはいられない。弁明する訳ではないが、結構ストイック(禁欲的)にやっているし、これまでの住宅は、確かにここで、この環境で生まれたのだ。
 肩も凝り、集中力をなくし、どうしようもない時は、アナログのLPを片面だけ、目を閉じて聴く。片面が25分に足りないくらいで時間の尺が丁度良いのだ。CDは72分だからこのさりげない時間にはならない。学生の頃から持ち続けているJAZZのレコード。俗にいう名盤と呼ばれたものばかりだが、プチップチッと最初の音が出るまでの間がアナログで何とも心地よい。それも決して通ではないから、音の善し悪しやオーディオ比較等という世界とは一切無縁の、自分にとっては納豆ご飯程度のレベルのお話。手軽なCDにはないメリットもいっぱいある。ジャットのデザインを楽しみ、盤の誇りをクリーナーで拭い、慎重にターンテーブルにのせ、針を落とし、ライナーノーツを読みながら、コーヒーを一杯楽しんだら丁度終わるくらい。丁度25分くらいで、小足りないくらいで仕事の世界に舞い戻れる。
 今日は雨、気が滅入らないように、明るくソニーロリンズの愉快なノリのテナーでも聴こうかな...。
 
| 音楽・アート | 11:51 | comments(0) | trackbacks(0) |
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