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幸いな事に...若者たちとの事。
 幸いな事に、こんな親父のもとに未だに若い子たちが連絡をくれる。ともすれば、親子ほどに歳が離れているのだから、何かを言えば「ウザイ」の三文字で抹殺されても仕方のない関係なのに、仕事の事、プライベートな事など、悩めば内訳話に来てくれる。それは、講師の端くれとして10年存在したご褒美と言えるもので、実に喜びにたえない。学校という舞台装置の上では、お互いの立場が明確にあるが故にそんな事も容易かったが、お互いに一個人となってからは、思いがなければ寄っては来てくれない。無論個人差はある。人間だから、相性もあるし、親か、兄貴(親父が少し図々しい言い回しになるが)のように慕ってくれる子もあれば、遠巻きにしてなかなか近づかない子もいる。別段相談をされたところで、無力な私に何が出来るかと言われても何も出来ないが、多分彼らの親たちよりは口を挟まずに彼らの言い分をゆっくり聞いてあげる事が出来ると思うし、彼らが答えを出すまでは少し待ってあげる事が出来るのだと思う。親とどちらが良いという事ではなくて、それは私が他人だからであって、立場の違いである。私たちが若い頃もそうだったが、他人の親身になってくれる大人の存在というものは有り難いものだった。学生時代に本当の親代わりのようにお世話になったジャズ喫茶の店主ご夫妻抜きでは、私の青春時代は語れないし、人生のその後の展開は考える事が出来ない。私自身が当時そうして根気よく育てていただいたように、出来る事ならば彼らの役に立てればといつも思っている。彼らの悩みの答えは、大抵の場合彼ら自身の中に既に存在している。少しトンチを利かせて、その答えが導きやすいように、私としてはその場の空腹を満たしてあげたり、話を聞いてただただ同意し、心を軽くしたり気分転換をしてあげる位の事なのである。
 偏見のない彼らたちに混じって、年甲斐もなく同じ次元で話し込んでいたりすると、決して「近頃の若い奴は...。」などと言う台詞は出てこない。そんな台詞を吐く大人程、若い子たちの芽を潰しかねない輩なのだ。よくよく話していると、彼らは彼らの世界で、悩み、苦しみ、必死で答えを出そうともがいている。大人たちが、そのもがきを真摯に受け止め、答えが出るまで少し待ってあげたり、遠回しなヒントを授け続けてあげる事が出来れば、彼らは十分大人として社会へ貢献を始めることができる。大人が答えを用意する事は簡単である。しかしそれをやった上で、若者に頼りがないなどと毒づくのは大人の傲慢ではないだろうか。自分もそちら側にいる事は十分承知しているが、あえて言うならば、近頃大人がつまらない。自分の事しか考えない奴。若いパワーをただ利用しようとする奴。答えを最初から決めていて、自分の若い頃も忘れて今の子をなじる奴。待てない大人。聞かない大人。理解しようとしない大人。あらゆるものを自分の価値観で決めつけようとする大人。本当にどうにかならないものか。
 街を少し歩けば、私たちよりむしろ目上の方々のモラルのない行動に出くわす事も少なくない。きっと、年齢など関係ない、いくつになっても三つ子に教えられる柔軟な心は持ち続けなければならない。
 世相を反映して、確かに変な輩も少なくはないが、それでもおおよその彼らはきちんと輝きたがっている原石である。磨きようによっては価値も随分変わってくる。出来うる限り、彼らの可能性を伸ばしてあげたい。そんな事をいつも考えている。
 非力な自分には何も出来ないが、彼らが拒絶しない限り、この手のおつきあいだけはずっとずっと大切にしていきたいと思っている。世の中が、私に与えてくれた貴重なホットラインのひとつなのだから。
| 若者・教育 | 09:33 | comments(0) | trackbacks(0) |
住まいづくりのヒント5 子供部屋
 住まいのプランをしていて難しい要素のひとつとして「子供部屋」がある。なぞなぞのような話だが、子供部屋が欲しいという小さな子供がいる家族にとって、子供部屋はほぼ機能しない場合が多く、その部屋が役立つ時期は子供が少し大人になり始めた一時期であって、その一過性の時期が終われば子供は巣立ち、子供部屋は無用の長物となるのである。時間経過によって、刻々と要望が変わる部屋ほど無計画が難しい空間はない。
 世の中が金属バット殺人や家庭崩壊といった青少年の近親感でのトラブルや犯罪を取り上げ始めた頃、子供の非行の確率と子供部屋の豊かさには因果関係があり、子供部屋空間が豊かに独立性を高めれば高める程非行の確率が上がるという裏腹な結果が報告されていた。理想のかたちとしてサザエさん一家が暮らすふすまで簡易に間仕切った日本家屋を例にとるものもあったが、この辺りに子供部屋のヒントが隠されているのかも知れない。
 私が実家を出で最初に学生寮で過ごした空間は、ひとりあたり4畳程度の4人部屋だった。極端に言えば、勉強机とベッドがあれば事足りるわけであって、意外に狭さを感じるものではなかった。勉強と就寝という用途限定の空間としては、むしろ十分なのかも知れない。勉強と就寝が個室で出来るようになるまでは本来部屋はいらないわけで、そう整理して考えれば、子供部屋の像は結ばれてくる。
 建設当初は、例えば子供さんが二人の家庭などであれば二部屋を間仕切らずにひと部屋としてつくりプレイルームとする。玩具の出しっ放しもしつけが出来るまではありというわけだ。この頃子供は親とともに就寝する。私は小さい頃から欧米式よろしく親とともに就寝する事はなく、幼い頃から一人で寝ていた(親が欧米スタイルに準じたとはおもえない。おそらくたまたま)。真っ暗闇で天井の豆電球をまんじりと見つめてべそをかいたおぼろげな記憶も持っているが、本当はその方が良いかも知れない。そして、小学校後半くらいになれば家具などで間仕切り個室を与える。一番機能する受験時代を送り、やがて子供が巣立っていけば、あまり感傷に浸らずにもとの一室に戻して夫婦の趣味の部屋や、なかなか取ってもらえない親父の書斎にでもしてしまえばいい。
 かくして、私は「子離れの覚悟として、子供室は出来るだけ小さく作りましょう」とお話をする。限られた面積だから、その分家族のためのリビングに配分した方が得策である。夜8時ともなれば、家族がバラバラに個室に入り、リビングは消灯という憂き目に遭う住まいの事を、私は随分前から、「家庭内ワンルーム化現象」と呼んでいる。お父さんが単なるおじさんに、お母さんが賄いのおばさんに成り下がらないためにも、ここは心を鬼にして、個室はいじめて作りましょう。豊かな空間とは、ただ広いという事ではないのだから。
| 住まいづくりのヒント | 08:35 | comments(0) | trackbacks(0) |
月刊PLAYBOYとマイルス・デイヴィス
 月刊「PLAYBOY」と言えば、私たちの世代であれば何となく胸ときめく男性雑誌のタイトルである。近頃は、ファッションの世界であのバニーのロゴマークが、若い女性に大ブームになっているという。おそらくロゴだけが一人歩きして、プレイメイトと呼ばれるモデルさんたちのヌードグラビアの事など、ロゴファッションを身につけている彼女たちには知る由もないと思うのだが、私たちにとっては、まさに青春の1ページといった代物。今となっては可愛い話だが、そんな事に興味を持ち始めたニキビ面の男の子にとっては大変な雑誌で、レジ台に女性がいたりすればまず諦めなければならない。苦々しい本屋の爺さんに睨みつけられながら、そそくさと清算して手にしたときには思わずガッツポーズ。寮や下宿には誰彼なく持ち込んだバックナンバーが転がっていた。
 先日、ふと雑誌棚で何気なく手にしたのは、まさにその月刊「PLAYBOY」。気のせいか当時より随分品が良く、最初は表紙のマイルス・デイヴィスの文字にひかれて手に取ったが、しばらくそれがあの雑誌だとは気がつかなかった。JAZZの巨人マイルス・デイヴィスの特集号で、表紙も黒いパンツ、素肌にブラックレザーのジャケットを纏い黒い帽子を目深にかぶったマイルス。トランペットを片手に壁際に寄りかかるような姿勢で何か上の方を見つめているという、何ともカッコイイものだった。マイルスと、臙脂色のタイトルの文字がマッチしていて、センスがいい。思わず買ってしまった。おそらく25年以上買う事のなかった雑誌である。80枚もの名盤に解説がついていて、65年間のマイルスの生涯とジャズの進化がかなりのページ数をさいて取り上げられていた。勿論お決まりのプレイメイトのグラビアもある事にはあるが、何とも上品なものである。冷静沈着に俯瞰出来るこちらが少し汚れてしまったという事なのか(笑)。久しぶりに昔の思い出が品の良いかたちで蘇った様な感じで面白かった。
 名盤中の名盤「カインド・オブ・ブルー」は、全世界で間もなく1000万枚の売り上げに達するという。考えてみれば、弊社にはLP盤もCDも存在しているから、少なからず貢献しているということになる。先日、まだ20代前半の教え子の一人がたまたまこの「カインド・オブ・ブルー」を聞いてJAZZにはまり始めていると言って弊社のライブラリーを物色していった。私は思わず、「ふむふむなかなかいいとこ突いてくるな」と褒めたたえる。考えてみれば、1959年に発売された音源を話題に、親子程年の離れた彼と私が熱く語っている、何とも音楽という者は不思議なものだ。次回彼が遊びにくれば、この月刊「PLAYBOY」とマイルスの話題がメインになる事必定である。
| 音楽・アート | 09:27 | comments(0) | trackbacks(0) |
博多祇園山笠 2
 博多祇園山笠の起源は諸説あるが、一説によると鎌倉時代のある夏のこと。博多では疫病がはやり大変な被害を被った年があった。当時、宗国(現在の中国)から帰国し、承天寺を開山した禅僧、聖一国師・円爾弁円(しょういちこくし・えんにべんねん)という高層が、施餓鬼棚(せがきたな)の上に乗り、祈祷水を街に撒いて回ったのがはじまりだという。今でも山笠は梅雨明けの祭りであり、気負い水といって、走る山に水を掛ける風景は恒例で水とは馴染みの祭りである。
 当時大流行の外来仏教「禅」と神社で行われる神事との関係を変に思う人も多いと思うが、その印象は明治新政府が構築した宗教観の写しであり、明治以前の日本は神仏習合の概念が当たり前であったという事を前提に飲み込まなければニュアンスは伝わりにくい。祇園とはギーオンの音訳で釈迦が生きていた頃の僧院のこと。また全国の祇園社の祭神は牛頭大王という疫病神であり仏教で言うところの薬師如来の化身と考えられていた。京都八坂神社の祇園祭はその代表格と言えるだろう。祇園祭りとは政変などで失脚し憤死した者の祟りとして街中に蔓延する疫病退散を目的としたものがルーツで、山笠もそのひとつであるという事が言えると思う。
 私は生粋の博多っ子ではないので、常に観客側でという事は先日述べた。しかし以前こんな事を調べていくうちに、円爾弁円(えんにべんねん)という僧にたどり着き少し気を良くした事がある。この禅僧は当時の中国である宗に渡り、7年間、禅を直接学んできた。帰国後博多で承天寺を開山したあと、京へ上り東福寺を開山、日本で最初の国師号を与えられたのだが、この東福寺は私の郷里である四国の田舎の檀家寺の本山寺に当たる。こじつけだが、東福寺は私も京都に行けば、その伽藍の勇壮さといつも凛とした空気感、想像力豊かでモダンな庭などにひかれて必ず立ち寄る古刹である。ギャラリー席を甘んじて暖めるしかない私には、意外なところに山笠との接点があり嬉しくなった事を記憶している。
 きらびやかで、勇壮な祭りのルーツが、禅僧の祈祷であり、疫病退散の願いであると知れば、少し見方も変わってくる。しかしいつもあの生命力にあふれる活気と晴れがましさ、何処か凛とした空気感は改めて符合すると言えなくもない。今年もその季節がやってきた。梅雨空を突き上げて、山が動くまでのプロセスは、博多の超一級の風物詩と言えるだろう。
| 歴史・文化・旅 | 10:21 | comments(0) | trackbacks(0) |
博多祇園山笠
 本格的な梅雨といった感じの重たい空気が満ちている。この鬱陶しさが、少しざぶっと降る大雨でぬぐい去られる頃になると本格的な夏となる。福岡には商人街である「博多」部という地域があり、この地域に残る伝統的なお祭りが「博多祇園山笠」である。博多総鎮守、櫛田神社を中心に、既にこのお祭りの行事は始まっていて、街のあちこちで男衆が長法被(ながはっぴ)といういなせなユニフォーム姿で歩いているのを見かけたりする。月明け1日からは本格始動、商店街や目抜きの場所で飾り山と言われる博多人形師による絢爛豪華な山が展示される。7月15日早朝の追い山というクライマックスまで、山のぼせ(山笠行事に仕事もそっちのけで熱中するという男たちの意)たちの熱い日々が続く。
 幼い頃、福岡の地に移り住んで古里と言われれば迷わず「福岡」と答える私は、残念ながら生粋の博多っ子ではないので、この壮大な男祭りについては専ら観客席を暖める方に回っている。男としては少しばかり憧れて、異邦人である自分を少し恨みがましく思いもするが、子供の頃から観客としても十分楽しみなお祭りである事は間違いない。
 今は整備されて博多リバレインや博多座になっているエリアは、昔、上川端通、寿通というアーケードの商店街が連なっていて、路面電車が走っていた明治通をはさんで現在も残るキャなるシティーに続く下川端通りまで、飾り山が数えきれない程に並んでいたのを覚えている。飾り山には裏表それぞれ違った標題の飾りが施されていて、表には人形師の技量が一番映える戦国絵巻物などの一場面が多く、見送りと呼ばれる裏面には、アニメや映画からとったキャラクターものなどが多かった。
 家族とともに、飾り山を表裏と立ち止まり見上げながら、商店街に並ぶ店々や露天を冷やかしながら歩くのは、子供心にもはれがましく、楽しみな年中行事のひとつだった。大人たちも祭りに何だか気が大きくなり、この時ばかりは少し奮発して玩具などを買い与えてくれたから尚更だ。こんな季節だから良く土砂降りに遭遇したが、雨音と喧噪の中、飾り山のきらびやかな色と、少し怪しげな露天の色使いのライトなどが今も記憶の中にみずみずしく残っている。当時まだ走っていた路面電車がゆっくり行き交う。水しぶきが上がり煙る程の強い雨と時折高い空を走る稲光。商店街の向こう側の入り口のネオンがにじむ風景に、内輪や今釣った金魚などをぶら下げて、横断歩道をたくさんの人が笑いながら笠を半開きに押し合いながら早足で歩いていく。浴衣の人も少なくない。記憶の中の大通りは今よりももっともっと向こう岸が遠かった気がする。
 少し大人になって、福岡出身のチューリップが歌った「博多っ子純情」という歌を聴いて、記憶に重ね刷りされてどちらも連鎖で当時を呼び戻す。物悲しいマイナーな歌だが、叙情的に博多を歌っていて好きだ。子供の頃の郷愁が何となく胸を熱くする。
 今年もそんな季節がやってきた。
| 歴史・文化・旅 | 09:36 | comments(0) | trackbacks(0) |
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