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2016年オリンピック招致の顛末
 2016年オリンピック招致候補は、福岡が敗れ、東京と決定した。今回の招致、最終的には双方の経済力の差が結果に繁栄されたという見方が強いが、商業オリンピックに転換以降のIOCの事を考えれば、世界へ打って出るJOCの判断は概ね早期に決定していたのかも知れない。既に前線離脱をしてしまった福岡市民の私などにしてみれば、ただ安藤忠雄さんのプロデュースする空間に興味がある事と、大阪の二の前にならねば良いがと思うだけである。
 私が思うに、福岡市長の思惑には反するかも知れないが、地方開催のメリットと特徴を生かして、近県の協力を得ながら福岡市の都市部を中心機能とした自然豊かな場所での分散型オリンピックなどの提案の方が可能性があったのではないだろうか。東京に都市集中型で挑むという事に無理があったかも知れない。
 それにしても、招致運動開始直後から福岡市民の間では、何処から起こった話なのか不明瞭なところも否めず、賛否の意見が大きく分かれていた。敗北設定の瞬間、本来支援者が集まる市役所コンコースの聴衆の中から、かなりの拍手が沸いたのがとても印象的だった。市内中心部の湾岸に当たる須崎地区の再開発と絡めた市側の提示するプランも、理由をつけて再開発に着手したい市側の意図が見え隠れして好感が持てず、市民の意向との間に少なからず隔たりを感じざるを得なかった。 
 オリンピック招致そのものは、経済効果も大きく、本来お祭り好きな福岡市民のカラーには似つかわしいイベントだったかも知れないが、福岡市民はそんな事よりもまず優先して、もっと盤石な既存都市のインフラ整備や徐々に希薄になりつつある公平な市民サービスを市に求めたという事ではないだろうか。一方では重税感がましているにも関わらず、財政難を声高に訴え、サービスを徐々に切り捨て、派手目な起爆剤に走る政策には、市民も敏感になっているという事だ。
 一福岡市民としては、すでに「オリンピック招致ならずとも須崎は再開発」という声があるが、市民の声を無視し続けて断行されたアイランドシティーでの数々の問題をふまえ、教訓と反省を是非生かして、慎重に、本当に慎重に事に当たってほしいと願わずにはいられない。やっている事が、一時期大流行りして非難を浴びた「箱もの行政」と形を変えただけで酷似しているように思えて仕方がない。行政側がタカをくくっている程に、市民にはゆとりはないのである。
 みんな結構、顔で笑いながらも、心で泣きながらハラハラとしながら、危なっかしく一本橋を渡っている。そう言う民意を是非行政に生かしてほしい。ささやかな一小市民としての願いである。

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| 社会・事件 | 08:53 | comments(0) | trackbacks(0) |
ものの価値について
 例えば、木から掘り出した一本のスプーンの値段が、1000円するとする。荒削りし、手に馴染む事を確認しながら少しずつ注意深く削られたその手間からすると決して高い値段でないが、それと似たり寄ったりの感覚のものが100円ショップにもあったりする。1000円のスプーンを作っている人にそんな事を言えば叱られてしまいそうだが、改めて何処が違うかと言われると決定的なものが見当たらない。ましてや100円のスプーンでも、それは良く見れば違いは分かるにしても、案外事足りてしまうから問題なのである。
 近頃、世の中では、こんな事が沢山起こっている。技術革新や大量生産のシステムにより、一つのものがより安く私たちの手に入る事は決して悪い事ではないが、それ故に、本当のものの価値というものがなかなか見難い世の中になってしまっている事も事実だ。価格競争の激化によって、泡のように生み出された品々が世の中にあふれかえる。一見豊かにも見える様々な事柄が、何となく薄っぺらく見えてしまうのは私だけだろうか。誰の手にも望むものが容易に手に入るという事は、理屈抜きで幸福な事であり、決して否定は出来ないが、だからと言って、ちょっとした美意識をその事で鈍化させてしまうのはあまりにも悲しい事だと思う。おそらくは、100円ショップのもので充分なものも沢山あるのだと思う。消耗品や、シンプルな形で数の必要なものなど、形のなくなるもの、またあっても主張しないものは良いのではないだろうか。しかし、大量生産してはいけないものも、この世には沢山あるのだという事を、私たちは決して忘れてはいけないのだと思う。
 例えば、少しウエットな言い回しになるが、ものにも思いが込められる場合がある。「愛着」とか、「こだわり」という言葉が近いかも知れない。使い込む程に手に馴染み、無二のものになっていく時間の経過を充分に楽しみながら使うものには、それなりの耐久性と変わらない付加価値が備わっていなければならない。そう言うものには得てして作り手側の思いも込められている場合がある。この手のものは、100円ショップにはあってはいけない。その不文律を、時折犯す100円ショップの贋物には、手を出さない自分でありたいと思う。既に生産者側にモラルがないのであるから、消費者側の価値観に委ねられる場合が多い。
 しかし、やはり値段が5倍とか10倍だと思うと、しばしば心が揺らぐ。これでいいかと思う気持ちを、いやいや待て待て、ひとたび買えば、今度は捨てる罪悪感に苛まれ、渋々見たくないものに囲まれる日々が続く。自分をいさめながら、買わない努力の日々が続く。

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| エッセイ | 09:27 | comments(0) | trackbacks(0) |
海ノ中道大橋での事故を悼む
 先日の海ノ中道大橋からRV車が転落した事故は、ある家族にご両親は一命を取り留めたものの3人の子供が命を奪われるという何とも痛ましい結果をもたらしてしまった。転落の原因を作った時速80キロで後方より追突した車は、酒に酔った22歳の市の職員が運転するものだったという。彼は何の目的もなく、ただ、ドライブを楽しむ為に車を走らせはじめたばかりだったという。
 逮捕された犯人に弁解の余地はないし、これは交通事故と言っても悪質な人災、事件であって、無論本人に殺意はなかったとはいえ将来ある子供3人の命を身勝手な衝動から奪ってしまった罪は極めて重いと言わざるを得ない。
 なんと言っても、子供達の両ご親の悲しみを思うと、胸が締め付けられ言葉もない。可愛い盛りの子供達と、何の前ぶれもなく瞬間に引き裂かれてしはまった親御さんは、おそらくこれから徐々にその真実を受け止める程に、狂わんばかりの悲しさに包まれてしまう事だろうと想像して止まない。同じ子を持つ親として、身につまされて辛くて仕方ない。当事者の気持ちに及ぶなどとは思わないが、その幾千倍の悲しみを感じておられるだろうと思うと切なくて切なくて、やり切れない。
 私はいつも、親離れし健全に生きる子供を想像し、早く親元を離れ、自立した方が良いという意味の事を書く。溺愛する親を少しばかり辛口で非難し、不甲斐ない子供達に檄を飛ばす。しかし、それはお互いにこの世に肉体と魂が存在するという大前提の上にあるから言える事なのだ。本来は、我が身は滅べどもという気迫で親は子供に向かっている。近頃は無責任な親も多いが、それは例外である。親は自分の命などより、子供のことを思う。自分と同等あるいはそれ以上の分身であり、未来であるからだ。今回のお母さんも、自ら海面に浮かび上がった後も、何度も再び水中に潜り、我が子を捜したという。何とも痛ましく、心のチャンネルを合わせてしまうと泣けてくる。
 本当に、犯人の青年にはその軽はずみな行動に反省していただきたいし、刑期を終え、もしも社会復帰する事があるのならば、私は是非親になる機会を持ってほしいと思う。そして、ハラハラしながらも、日々成長する我が子のその姿を見て過ごす幸せを味わうと同時に、今回の罪も悔いてほしいと思う。何故ならば、きつと22歳の青年にはこのご両親の今の気持ちは、どれ程反省しても、どれ程想像力を潜らしても、絶対に理解は難しいと思うからである。
 子供は、世間様からの預かりものではないだろうか。そう思う事が多々ある。日々そのちょっとした表情や仕草に、まぶしい程の生命力と自分では計れないその子の未来を垣間みる時、まさか自分から生まれ出た者などと言う傲慢な気持ちは起こらない。大切な預かりものをしている責任と筆舌にし難い幸せな気持ちをを感じることがある。
 犠牲者のご冥福を心から祈るとともに、ご両親の深い悲しみを悼み、合掌。ハンドルを持つ自分の意識も、これから尚一層注意深く慎重にと誓わないではいられなかった。

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| 社会・事件 | 06:24 | comments(0) | trackbacks(0) |
夕立とダイエット
 風が吹けば桶屋が儲かるなどという事を言うが、最近の私は、「夕立が来ると髭が太る」とでも宣(のたま)いたい。
 昔からの習慣で、私は一日のリズムとして、夕刻、忙しくても一度自宅に戻り夕飯を食してからまた夜に仕事場に戻り、眠くなるまで机に向かうという日常を過ごしている。その昔、オープンデスクで仕事を手伝わせていただいたアトリエがそうだったから、設計事務所というのはそんなところだと思っただけで、そうするさしたる理由があるわけではない。ただ、おかげさまで、自営業の悲しさ、家族とゆっくり団らんなどというアフターファイブを送った事は一度もないけれども、我が家の姫などに言わせれば、朝食と夕食の場にはいる事が多いから、よそのサラリーマン家庭などよりは余程親子の食事の回数は多く、姫の印象としては父親は身近にいる存在として認識出来ているほうらしい。
 住まいと事務所は車で走れば10分程度、歩くと片道30分というところだ。昨年は学校への通勤で自ずと歩かされていたから、一日の有酸素運動の量は確保されていたけれど、今年になってからは一日のこの2往復を車で行き来してしまうとほとんど運動しないという事になる。かくして私は朝晩の行き来に車を使い、夕飯の一時帰宅を徒歩でするというリズムを編み出した。片道30分と言えば、他人様はぎょっとするが、これがちょうど良い。到着すればじんわりと汗をかく程で、これ以下だとおそらく脂肪燃焼には至らず、これ以上だと疲労が残る。早足で、景色を楽しみながらのウォーキングは決して不快ではなく、むしろ一日のなかのちょっとしたリフレッシュの良い時間だ。
 ところが、ところがである。最近のお天とうさんと来たら、実に気紛れである。夕刻帰ろうかと思う頃に、ムクムクと入道雲が立ち始め、やがて暗くなり、ついにはゴロゴロとやり始める。夕立である。私の嫌いなものの最上位に、雷様がある事は以前何かで書いた記憶がある。若い頃、京都盆地での雷の洗礼はその後の私の記憶から離れない。何よりも、雷が嫌いなのだ。ヤフーの天気予報は雨雲の動きを6時間ごとにシミュレーションして画像で見る事が出来て便利が良い。そろそろ帰ろうかと考えると、ヤフーの天気で雨雲をチェックする。頂けない。これからまた雨だ。窓から空を見上げると忌まわしい入道雲は既に低く降りてきて色濃く重たくその正体を見せ始めている。まさかハツカネズミでもあるまいに、室内で一所でクルクルと歩くマシンなんかに乗る気にはなれない。今日も歩けないか...。止むなく車のキーを握る。
 そんな葛藤が近頃しばらく続いている。「女心と秋の空」などというけれど、近頃は思考回路もユニセックスになって、気紛れは女性の「おはこ」とは一概には言えなくなってきている。バリバリとなすべき事をこなし、仕事で信頼のおける女性の人材も豊かだし、また情けない事だが、こうと決めても何となくためらいがちに、突っ走る事の出来ない男もまた多い。
 本当の秋の到来にはもう少しありそうだが、晴天に一気に広がるこの夕立には本当に閉口している。このままでは、タンクのガソリンは減るばかり、私の体重はじわりじわりと蓄積しそうた。別の体力温存の方法を少し考えなければならないのかも知れない。車までガソリンを手運びするとか、駐車場を三角状にルートから離すとか....待てよ、それでは意味がないか。

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| エッセイ | 09:13 | comments(0) | trackbacks(0) |
日本人のモラルについて 公衆道徳という言葉
 日本人のモラルの低下が問題になっている。先日も国道3号線を現場へと北に車を走らせていると、その中央分離帯のグリーンの中にあるゴミの多い事。空き缶や煙草の空き箱、ひいてはコンビニ袋に大きくまとめられた生活ゴミとおぼしき諸々のゴミがむなしく風船のように枝に引っかかっていたりする。
 思えば世の中から徐々に消えていったものの中に、共通のキーワードが見つかってくる。まずは公衆浴場が消えてしまった。健康ランド・スパ・温泉と言ったアミューズメント性を打ち出したものはあるにせよ、近隣の住民が皆こぞって使う浴場というものが、今ではほとんど見られなくなった。内風呂が当たり前になったと言われればそれまでだが、江戸の昔から格好の社交場だった文化の消滅と言えなくもない。私には幼い頃、東京杉並の叔母の家を訪ねた晩は、決まってこぞって近所の大きな銭湯へ行き、風呂上がりに従兄弟達とともに扇風機に当たりながらフルーツ牛乳を飲んだという今思い出しても何とも素敵な思い出がある。それから街のそこここにあった公衆電話。10円玉からテレフォンカードに変わった時はハイテクな未来に到達したかのような錯覚があったが、このように早くに駆逐されるとは思わなかった。携帯の普及は人々が自分のインドアを街に持ち出していると言えなくもない。事、携帯に関して言えばマナーの悪い人々も多い。電車やバスの中で公然と大声でしゃべっているのはむしろ若者達よりも中年以降のおじさんおばさんが多いのも特徴だ。また仕事で外回りをしていると、打ち合わせでお茶を出され、いきなり其所で所望するわけにも行かず、ついつい外でトイレを探すが、最近は公園の公衆トイレやゴミ箱がなくなりつつある。みんなが使う場所だから大切にされるべきなのだが、得てして破壊や落書きの標的になり、あげくはテロで爆弾でも仕掛けられたら大変だからと設置自体を止めてしまう。高速道路のパーキングエリアのゴミ箱には、指定袋を買わない輩が日常の生活ゴミを捨てていくというのだから仕方ないのかも知れないが...。
 日本から、「公衆」という言葉が消えつつある。昔の方は、肌の露出の多い若者達の風俗などを見て、「公衆の面前で霰(あられ)もない」とお説教されたものだった。その「公衆」である。広辞苑を引くと、「社会一般の人々。広い地域に散在する人々の間接的接触によって成立する非組織的な集団」とある。古来より、日本には「晴れ(はれ)と褻(け)」という概念があり、公な事と私的な事とを礼節を持って区別する習慣があった。それが既になくなっている。考えてみれば、携帯電話、音楽プレイヤーなどのモバイルツールが売れているのは、私的空間から日常を戸外の公の場に気軽に持ち出せるという事に魅力があるからに他ならない。公を意識しない、傍若無人な日本人が増えている。様々なものの最後に、「公衆道徳」という言葉すら、死語になり始めているのかも知れない。

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| 社会・事件 | 06:34 | comments(0) | trackbacks(0) |
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