耐震偽装にはじまった倫理感に乏しい専門的な職業人の意識は、公務員や警察官の飲酒運転、学校の先生自ら主動による生徒のいじめと、いよいよ持って悪質化している。新聞に医療の分野でも、研修医の配置先希望のデータで、民間の総合病院や都心部に希望者が集中し、多忙極まりない大学病院や、そこから郡部、離島への行き手が減少の一途をたどっているという。損得勘定の輩が多いことは今に始まったことではないが、本来プライドを持って向かうべき専門的な職業人意識も、下降を食い止めることは出来ないのだろうか。
近頃は、いちいち断るのが面倒で「先生」と呼ばれても返事をすることにしているが、若い頃はどことなくこそばゆくて、その都度やめて欲しいと言って廻ったものだった。私の価値観において、単に建物の設計が出来ることくらいによって、「先生」呼ばわりされても困惑するし、若い頃に営業マンにそう連呼されると、なんだか「何にも分からないお兄ちゃん」と言われているようで嫌だった。名実共に講師業などというものに手を染めたから、「先生」と呼ばれるシーンも増えて、昔のような過敏反応は鈍くなりしなくなったが、未だに本音を言えば座りが悪い言葉である。
およそ「先生」などと呼ばれる人は、一般の方の規範であり、公に尽くす立場を堅持出来なければならないと思う。私などはそういう意味では、日々の暮らしに追い回されるのが関の山で、およそ先生らしいことなど出来ていないのだ。考えてみれば「先生」と名のつく仕事も昔に比べれば随分価値が下がったのではないだろうか。博多の歓楽街中洲に行くと、だれ彼問わず「先生」か「社長」になってしまうが、世の中の風潮を見れば、連呼するその言葉には、中洲のそれと変わらない程の価値しか残されていないような気がしてくる。それほど、呼ぶ方も呼ばれる方もそのことの価値が下がってしまっているのだ。だから社会の規範になる筈もない。全てが軽薄な世界である。何処かで認識を変えなければ、今後もこの現象は悪化するのではないだろうか。
「先生」とは、専門的な職能意識の頂点に立つ人に似つかわしい称号である。私などは出来ることならばもっと歳を喰って、何かひと言言うと誰かが幸せになったり元気が出てくるような、本当の意味で「先生」と愛称され慕われる一人間となりたいといつも思っているのだが...。
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