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祝 5ヶ月!!
10月末をもって5ヶ月連続マラソン更新の記録樹立です。笑。記録と言っても別にノルマと化しているわけではないのですが、誰かが読んでくださってると書き続けているうちにそうなりました。コラム総数は150を超え、延べアクセスは3万1千人を突破しました。考えてみると、我ながら、ちょっと偉い!これもひとえに読んで来くださる皆様のお陰と感謝しております。今後ともどうぞよろしくお願いします。
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| エッセイ | 17:25 | comments(0) | trackbacks(0) |
ぷにゅぷにゅ
 パソコンの消耗品の買い物かなにかで、福引きを引いたら、網かごに入った黄色いボールをもらった。おめでとうございますと手渡されたから最下位ではないらしい。何だか分からずに鞄に入れて持ち帰って、何かの拍子に取り出してみるが、要領が掴めない。「なんだこれ?」パッケージを見ても良く分からないが、球技に使うものとしては少し小さく弾力がありすぎる。そして少し重たい。机の上で転がすが、弾力があるからと言って、特別に跳ねるわけでもない。
 よくよく見るとなるほどと合点。いわゆるストレス解消癒しのグッズ。手持ち無沙汰なときに片手で握りぷにゅぷにゅとするものらしい。握力を鍛えると言うような積極的な用途を設定しているわけではないと思うが、黄色い原色がスポーツ用品っぽくなくもない。合点がいって満足し、殆ど使わず机の片隅に転がっていたが、考えてみるとわたしは考え事をするときに、粘土のような練り消しゴムを手先でコネる癖がある。これに変わるものなのだ。そう思って、改めて握ってみると指先にかかる適度の弾力のストレスが心地いい。いつの間にか、パソコンをマウスで動かしながら反対の手でプニュブニュ、電話で会話しながらぷにゅぷにゅ。オーソドックスに握ってみたり、フォークボールのように指の間に挟んでみたり、不思議と落ち着いていられるのである。馬鹿にしていたが、案外効果はあるのではないだろうか。賑やかな街頭の福引きで「おめでとう」などと言われると気恥ずかしいが、今更ながら、あのとき要領を得なかったその言葉に、「・・・・まぁ、ね。」などとつぶやいてみたりする。もちろん、プニュプニュとやりながら....。


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| エッセイ | 08:41 | comments(0) | trackbacks(0) |
先生と言う名の仕事について 問われる職能意識
 耐震偽装にはじまった倫理感に乏しい専門的な職業人の意識は、公務員や警察官の飲酒運転、学校の先生自ら主動による生徒のいじめと、いよいよ持って悪質化している。新聞に医療の分野でも、研修医の配置先希望のデータで、民間の総合病院や都心部に希望者が集中し、多忙極まりない大学病院や、そこから郡部、離島への行き手が減少の一途をたどっているという。損得勘定の輩が多いことは今に始まったことではないが、本来プライドを持って向かうべき専門的な職業人意識も、下降を食い止めることは出来ないのだろうか。
 近頃は、いちいち断るのが面倒で「先生」と呼ばれても返事をすることにしているが、若い頃はどことなくこそばゆくて、その都度やめて欲しいと言って廻ったものだった。私の価値観において、単に建物の設計が出来ることくらいによって、「先生」呼ばわりされても困惑するし、若い頃に営業マンにそう連呼されると、なんだか「何にも分からないお兄ちゃん」と言われているようで嫌だった。名実共に講師業などというものに手を染めたから、「先生」と呼ばれるシーンも増えて、昔のような過敏反応は鈍くなりしなくなったが、未だに本音を言えば座りが悪い言葉である。
 およそ「先生」などと呼ばれる人は、一般の方の規範であり、公に尽くす立場を堅持出来なければならないと思う。私などはそういう意味では、日々の暮らしに追い回されるのが関の山で、およそ先生らしいことなど出来ていないのだ。考えてみれば「先生」と名のつく仕事も昔に比べれば随分価値が下がったのではないだろうか。博多の歓楽街中洲に行くと、だれ彼問わず「先生」か「社長」になってしまうが、世の中の風潮を見れば、連呼するその言葉には、中洲のそれと変わらない程の価値しか残されていないような気がしてくる。それほど、呼ぶ方も呼ばれる方もそのことの価値が下がってしまっているのだ。だから社会の規範になる筈もない。全てが軽薄な世界である。何処かで認識を変えなければ、今後もこの現象は悪化するのではないだろうか。
 「先生」とは、専門的な職能意識の頂点に立つ人に似つかわしい称号である。私などは出来ることならばもっと歳を喰って、何かひと言言うと誰かが幸せになったり元気が出てくるような、本当の意味で「先生」と愛称され慕われる一人間となりたいといつも思っているのだが...。

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| 社会・事件 | 06:59 | comments(0) | trackbacks(0) |
帰福の風景
 数日の山中での研修から帰ってみると、いつもながらの福岡が何となく慌ただしく感じられる。深夜に及んでも幹線の車は途切れることはないし、ヘッドライトのまぶしさに顔を背けながらハンドルを握っていても、何だか次元の違う世界を渡り超えたような感覚が残って不思議である。たった一日前は、数えきれないほどの星のきらめきに暫く立ち止まって上空を見上げたまま黙ってしまったのに、同じ空がネオンのハレーションによって遠ざけられ、何となく色あせた感じである。
 本来私は都会派で(自分が垢抜けていると言う意味合いではなくどちらが好きかと言う意味において)、田舎暮らしなど絶対に無理だと思っているが、都会にない沈黙や静寂が、自分に与えてくれる影響の大きさに今回気付かされたような気がする。都会の不夜城にいても、やはり、沈黙の時間は欲しいな。闇は必要だな、そんなことをつぶやいている。暫く、このぎこちなさがつつくのだろう。

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| エッセイ | 22:22 | comments(0) | trackbacks(0) |
山間の・・・。秋吉台国際芸術村
日本を代表する建築家が公共のお金を使って建てるいわゆる箱ものは、しばしばその佇まいすら嫌悪を覚えるが、芸術村はそれを感じさせない。きっと拠り所としているものが、芸術という崇高な世界であるからだと思う。教え子との再開の場としては、あまりにも似合いすぎる。教え子たちが再会を約束しながら日常に戻っていく。私もこの施設のようにいつも寛大で懐深く、彼らを迎えることができる自分でありたいと、この至福の時間を名残惜しみながら、少し感傷的に思う。

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| エッセイ | 10:24 | comments(0) | trackbacks(0) |
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