鉛色に低くたれ込めた冬の雲の下にいると、およそ見上げて微笑むと言った感じではなく、机に肘などついて少しばかり思索に耽ってみたい気になったりする。こんなとき、不謹慎にもロシアの文豪トルストイは、ハワイアンとトロピカルフルーツの下では産まれなかったのではないだろうかと変なことを思ってしまう。
先日、近頃では珍しく宮崎県日向村の新しき村と武者小路実篤のことが新聞の読書欄に取り上げられていた。大正デモクラシーの最中、トルストイや印象派の画家達の影響を大きく受けながら理想主義を抱えた青年達の著作には、私の中学時代もご多分にもれず、その思想に深く影響を受けたものだった。実篤を始め、有島武郎や志賀直哉に代表される白樺派は、お育ちの良いお坊ちゃん達の理想主義的な戯れと揶揄される場合がなくもない。私自身、随分大人になってからそんな話をすると、それは誰しもある青い時代の通過点であって、未だに白樺派ですかと冷めた顔をされる御仁も多く、余り人前で多くは語らないことにしているが、心の根っこの部分は、実はここにいつも回帰するのである。早々に卒業した気になっている大人ぶったシタリ顔にはずっと嫌悪感を持って来た。
「ひとはひと、我は我、されど仲良し」実に有名な実篤の詩だが、私はこの言葉が好きである。個人主義と利己主義は全く別のものである。自己を見つめ自己を確立するからこそ、他人に優しく出来る。何故人を傷つけないかという問いに対し、明瞭に「人に傷つけられたくないから」書き切る思想が好きである。
近頃の日本人は、ひとの言葉に過敏に傷つきやすく、人への配慮に関してはもっぱら愚鈍をはばからない。被害者意識は大いにあり、余裕に欠ける。安倍首相の言う美しき日本はこの繊細の度を超えたエゴと、公衆道徳の低落から浮き上がらなければ実現しないといえないだろうか。
トルストイなどのキリスト教的で少し自虐的な部分のある思想を、八百万の神のおおらかな思想にアレンジして紹介してくれた白樺派の功績は大きいように思えてならない。とかく荒んだ昨今の世の中に、もう一度光を求める為に、少しばかり読み返してみようかなどと、近頃企んでいるところである。
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