見かけの満足はあっても、それが一過性であっては何にもならない。住まい手がおよそ住まいのことなど考えなくなってからも、住まいは住まい手にそっと寄り添っていなればならない。また、逆にそんな住まいだからこそ、住まい手は住まいのことをずっと考えているのである。表層のことは別として、住まいに対する安心感や信頼や、安らぐ雰囲気や居心地と言ったものが、愛着につながっていく。また大切に住み手入れを繰り返していけばまた愛着がわいてくる。その循環で、住まいと住まい手はぴったりといつまでも寄り添うのである。住まい手の人生のかなりの部分を飲み込んでいる住まいを、そう言う無意識の安心感に包まれた空間にすることこそが、私は文化ではないかと思ったりする。文化は育まれていく何百年も生き続ける。住まいもその文化とともに生き、住まい手やその子孫に対して何代も寄り添ってまくれる。そうして無二の関係になっていくのではないだろうか。私は住まいについて、そんなことを期待するのである。
例えば見かけのことや、一過性の機能というわかりやすい住まい手のリクエストに対してお答えすることは比較的容易である。予算配分さえしてあげれば、出来ないものは何もないのだ。しかし、住まい手はそのリクエストが何年で風化するかなどということは全く考えていない。それを考えるのは私たちの仕事なのかもしれないのである。比較的、めざとく言われることほど、風化する時間は早くやってくる。住まいと住まい手とのお付き合いは長丁場である。住まい手の意識の及ばないところまでも、長い時間がまっている。私たちが出来ることとしては、その性能や雰囲気や、提供出来る昨日が一日でも長く持ち、住まい手に寄り添えるかどうかと言う部分を一番に考えたりするのである。断熱材の厚みは、ある意味住まい手の表面的な満足とは遠い部分に見えてしまう。それよりは、壁をどう仕上げるとか、アプローチをどう演出するかなどと言うことの方が大切に見えてしまうのである。勿論それも大切だが、私たちはその奥深くに潜在する、住まいの質についてしっかり考えなければならないのである。(つづく)
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