無二なるものとはどんなものかと考えた場合、それは時間と言うプロセスを伴ったものだという事が出来るかもしれません。万人に向けてではなくとも、その人にとって無二なるものがどれだけあるかという事が大切なのだと思います。コピー量産したものに囲まれて、あらかじめ用意されたパターンの情報にまみれて、何となく日々が過ぎて行く中で、私たちは何となく満たされない想いを抱えています。この数十年、この国は「便利」と言うキーワードのために邁進してきたのかもしれません。それと引き換えに、置き去りにしてきたものも多いのです。
このコラムでも一度ご紹介した事があるのですが、私の事務所のデスクトップには、ボロボロの三省堂版の金田一春彦の国語辞典ポケット判が置いてあります。表紙など何度も修復してすでにありません。実に48年前、無学な母が私の小学校入学の時に買い与えたものです。身体が小さかった私に重い辞書は辛かろうという単純な理由で、また子供用ではすぐ使えなくなり勿体ないだろうという理由から、彼女なりの選択でした。随分乱暴な話で、大人の辞書が子どもに使える訳ではありませんから、学校では結構苦労した事を覚えています。ただ、母のかけてくれた想いは無下にできずにずっと黙って使っていました。そして今も、変わらず手元にあります。のちに広辞苑なども揃えてありますが、簡単な漢字の確認はこれで事足ります。もしかすると、言葉を少し結構大切に思えるのは、この字引きのお陰かもしれません。きっと生涯手放すこしはないと思いますが、何でもないボロボロの字引きが、まさにプロセスが染み付いた私だけの逸品なのです。日常起こる雑多な事も、そう言うプロセスのひとつであり、人と人との出会いもまたプロセスです。ドライな人間関係がもしかすると主流なのかもしれませんが、私はどうも馴染みません。信頼関係などと言うものはまさにこのプロセスの積み重ねなのですから。手入れをすれば馴染む革ものなどが好きなのも、そう言う理由からかも知れません。ものもことも、時間に濾過されると本来の価値が湧いてきます。(つづく)