先日薬院駅のすぐそばの城東橋の歩道で、小さな男の子が路上に座り込んでいるのを見かけた。後ろ姿だから笑っているのか泣いているのかわからない。まだ朝の通勤の人々が行き交う時間帯である。人の流れは何もなかったように、子供を上手によけて行き交うが、よく見ると男の子の向こう数メートル先には、母親らしき女性がこれまたしゃがんで男の子と対峙している。「早く、たっちして」決して大声でも荒々しくもない、雑踏にかき消されそうないかにも優しい声がした。「おいていっちゃうよぉ。早く行こう。」なんとも優しい教育的指導である。我々が子どもの頃なら、つかつかと戻っきたおふくろに、分けもわからず後からしばかれて、耳でも引っ張られるのが落ちだった。行き過ぎて、男の子の表情を振り返ると、こちらも泣くでも怒るでもなく、母の声を小耳に入れながらも、我関せずの悟りの境地である。いつ大声になるか思わず見守ってしまったが、お母さんは結構な時間、最後まで静やかに子供を諭し、やがて手を引いて駅の方へ歩いていった。さて、厳しく接するか、根気よく諭すかの賛否をここで問うつもりもない。ただ、声を荒げずに済むものならば、この方がすこぶる人間的だ。私も人の親だが、そう言う意味では少々厳しい口調を使いすぎたかもしれない。この歳になり、もうずいぶん大人な娘への懺悔の気持ちがよぎる。
近頃バイトテロなる言葉が産まれるほど、外食やコンビニでのアルバイトの社会的な信頼への反逆ともとれる考えられない行動が目立つ。はっきり言ってコイツらは、一喝してつまみ出すくらいのことはやっても良いのかもしれない。もしかしたら、こんなお母さんに育てられたら、そんな大人にはならなかったかもしれないなぁ。いや、もしかしたら逆に叱られることがなかったのかなあ。ひとつだけ言えるとすれば、報道のような奇行は、まともなコミュニケーションの中からは産まれない。きっと、色々なシーンでほったらかされて来たのではないだろうか。そんなことがふと、頭によぎってしまった。
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